どーも。のま丼です。
ご無沙汰でした。
今回は個人的な統計のお話です。あまり参考になさらぬように・・
わたくし、「博多」在住でございます。
博多でラーメンといえば、これはもう間違いなく「とんこつラーメン」です。
生粋の博多っ子は「とんこつに非ずはラーメンに非ず」といった考えをお持ちかと、以前より思っておりましたが、それはそれはもう、その通りでございました。
「ラーメン」の看板があれば豚さんのパフュームが実によく漂っております。
中華屋は別として、9割のお店は「とんこつに非ずはラーメンに非ず」を頑なに守っておいでです。
もちろん、通われるお客様も志を同じくしておられます。
ところが、・・
大変な事実に気づいてしまいました。
わたくし、博多で「好きな食べ物がラーメン」という人に出会ったことがありません。
老若男女、誰一人いません。
「老」に至っては「ラーメン」が嫌いという人に片手以上出会っています。
ただ、勘違いをしてはいけません。
「ラーメンが好きではない」という人は飽くまで少数派です。
しかし、博多で「ラーメンが食べ物の中でベストな位置づけにある人はほとんどいない」というのがわたくしの統計でございます。
ある翁はこの様におっしゃいました。
「昔はよく食べたが、ラーメンは重たく、匂いがキツイからこの年になると・・」
そこで私は、「それなら醤油ラーメンでも食べればよいのでは?」・・と、言おうとして、ふと気づきました。
この翁が育った環境から察するに、「醤油ラーメン」はラーメンにカテゴライズされておらず、もはや別の食べ物として認識されているのだと・・
わたくしは、以前、ラーメン激戦区と称される地に居を構えていたこともあり、その認識は非常に残念であったことから、中国四千年の歴史をたった50年足らずで凌駕したジャパンカルチャーの真の姿を教えて差し上げようとも思いましたが、そのコミュニティーに根差した文化を踏みにじるのも如何なものかと思い、その口を閉ざしました。
そりゃトンコツばっかりじゃ飽きますよね。
たまには醤油ラーメンといきたいところですが・・
成熟しきったラーメン文化の存在する博多の地において、その選択肢が無いが故に、ラーメンをベストな食べ物にランクインさせることができない博多の人々のジレンマのお話でした。
雑学ライフ byのま丼
日常生活と人生のスパイスになる雑学をお届けします。役に立たない知識など無い! 気に入った雑学があればコメントをお願いします。 Twitterはリンク集をご確認ください。
2015年2月10日火曜日
2014年8月27日水曜日
論理の展開
こんにちは。のま丼です。
今日は「論理の展開」についての簡単なお話です。
中学年生レベルの数学を使って説明します。
論理の展開を誤ると大変な結論になってしまうという、有名(?)な問題です。
それでは、参ります。
【問】
論理展開の間違っている部分を指摘してください。
a=b=1とします。
この条件より
a=b
両辺にaを掛けます。
a²=ab
両辺からb²を引きます。
a²-b²=ab-b²
この式をちょっといじります。
(a+b)(a-b)=b(a-b)
両辺を(a-b)で割ります。
a+b=b
つまり
1+1=1 ・・・???
なぜ、こんな結論になるかわかりましたか?
答えは一番下に書いていますが、まずは自分でよーく考えてみてください。
簡単な間違いですが、意外と学校の先生でもすぐにはわからないかも・・
↓
【答え】
(a-b)で割ったところ。
【解説】
イコールの右と左を同じ数で割るのは問題ありません。
ですが、0で割ってはいけません。
a-bは1-1なので0です。
数字を0で割ると・・
1/0=∞
100/0=∞
∞/0=∞
こんな風にすべての答えが無限大になります。
ここで論理が破綻しています。
このように論理が破綻すると、1+1=1という訳のわからない結論が導かれてしまいます。
勉強になりましたか?
今日は「論理の展開」についての簡単なお話です。
中学年生レベルの数学を使って説明します。
論理の展開を誤ると大変な結論になってしまうという、有名(?)な問題です。
それでは、参ります。
【問】
論理展開の間違っている部分を指摘してください。
a=b=1とします。
この条件より
a=b
両辺にaを掛けます。
a²=ab
両辺からb²を引きます。
a²-b²=ab-b²
この式をちょっといじります。
(a+b)(a-b)=b(a-b)
両辺を(a-b)で割ります。
a+b=b
つまり
1+1=1 ・・・???
なぜ、こんな結論になるかわかりましたか?
答えは一番下に書いていますが、まずは自分でよーく考えてみてください。
簡単な間違いですが、意外と学校の先生でもすぐにはわからないかも・・
↓
【答え】
(a-b)で割ったところ。
【解説】
イコールの右と左を同じ数で割るのは問題ありません。
ですが、0で割ってはいけません。
a-bは1-1なので0です。
数字を0で割ると・・
1/0=∞
100/0=∞
∞/0=∞
こんな風にすべての答えが無限大になります。
ここで論理が破綻しています。
このように論理が破綻すると、1+1=1という訳のわからない結論が導かれてしまいます。
勉強になりましたか?
2014年6月23日月曜日
美しさの基準
こんにちは。のま丼です。
突然ですが、これ何かわかりますか。
1:(1+√5)/2
わかった方はなかなか良い雑学ライフを過ごされていますね。
「数学ネタかよ・・」と敬遠したあなた! ちょっと待ちなさいって!
知らないと人生損するかもよ。
これはですね、知ってる人は知っている「黄金比」というヤツです。
具体的には、1:1.618...という数値ですが、
これが「世界共通の美しさの基準」なんです。
この比率を知らずして美しさを語ることはできません。
何かを見て「キレイ」とか「美しい」と思ったら、基本的にこの比率で構成された要素が隠れています。
ミロのヴィーナスも
モナ・リザも
パルテノン神殿も
ピラミッドも
葛飾北斎の富嶽三十六景も
金閣寺も
名刺やカード類も
A4用紙も
アップル社のリンゴマークも
Twitterのデザインも
初音ミクも
全部黄金比を知っている人が狙って作ったから人気があるんです。
変人ガリレオ先生も言っていました。「僕は美人に興味がある・・」。
先生曰く、美人には基準があるから興味があるのだと。
確かに美人も同じです。
骨格や顔のパーツ・体形がこの比率に近ければ近いほど美人とされています。
では、なぜ人はこの黄金比率を「美しい」と感じるのか?
それはこの黄金比が自然界で最も調和のとれた形だからです。
よく例に取り上げられるのが、「オウム貝の螺旋構造」「ヒマワリの種の配列」「松ぼっくりのカサ」「竜巻の渦巻き」などですが、要は自然界ではこの比率で存在することが最も安定した状態であることを、すべての物体が無意識的にわかっているからです。
そもそも、生命の根源であるDNAの二重螺旋構造ですら黄金比で構成されていますので、遺伝子レベルでこの比率で存在することを選択しているのです。
そうなってしまうと、もはや意識の範疇ではありません。
人は無意識に黄金比に近いものを「美しい」や「調和がとれている」と感じてしまう訳です。
ということで、皆さんこの黄金比を是非日常生活の中で役立てて下さい。
1.618・・は1.5倍よりちょっと長いくらいです。
1つ基準を設定して1.5+αの長さのものを設置すればいいんです。
(イメージが湧かない人はネットで「黄金比」の画像を検索して下さい。)
デザインはもちろん、漢字やアルファベットの文字を書く時、パワポで提案資料を作成する時、部屋のインテリアの配置、服の丈やベルトの位置など、わりと何でも使えますよ。
最後に、実は黄金比には劣るものの、黄金比に次いで美しい基準とされる「白銀比」というものもあります。これは日本独自の比率とも言われていますが、次回はこの「白銀比」を題材に日本人の感性を考えてみたいと思います。
突然ですが、これ何かわかりますか。
1:(1+√5)/2
わかった方はなかなか良い雑学ライフを過ごされていますね。
「数学ネタかよ・・」と敬遠したあなた! ちょっと待ちなさいって!
知らないと人生損するかもよ。
これはですね、知ってる人は知っている「黄金比」というヤツです。
具体的には、1:1.618...という数値ですが、
これが「世界共通の美しさの基準」なんです。
この比率を知らずして美しさを語ることはできません。
何かを見て「キレイ」とか「美しい」と思ったら、基本的にこの比率で構成された要素が隠れています。
ミロのヴィーナスも
モナ・リザも
パルテノン神殿も
ピラミッドも
葛飾北斎の富嶽三十六景も
金閣寺も
名刺やカード類も
A4用紙も
アップル社のリンゴマークも
Twitterのデザインも
初音ミクも
全部黄金比を知っている人が狙って作ったから人気があるんです。
変人ガリレオ先生も言っていました。「僕は美人に興味がある・・」。
先生曰く、美人には基準があるから興味があるのだと。
確かに美人も同じです。
骨格や顔のパーツ・体形がこの比率に近ければ近いほど美人とされています。
では、なぜ人はこの黄金比率を「美しい」と感じるのか?
それはこの黄金比が自然界で最も調和のとれた形だからです。
よく例に取り上げられるのが、「オウム貝の螺旋構造」「ヒマワリの種の配列」「松ぼっくりのカサ」「竜巻の渦巻き」などですが、要は自然界ではこの比率で存在することが最も安定した状態であることを、すべての物体が無意識的にわかっているからです。
そもそも、生命の根源であるDNAの二重螺旋構造ですら黄金比で構成されていますので、遺伝子レベルでこの比率で存在することを選択しているのです。
そうなってしまうと、もはや意識の範疇ではありません。
人は無意識に黄金比に近いものを「美しい」や「調和がとれている」と感じてしまう訳です。
ということで、皆さんこの黄金比を是非日常生活の中で役立てて下さい。
1.618・・は1.5倍よりちょっと長いくらいです。
1つ基準を設定して1.5+αの長さのものを設置すればいいんです。
(イメージが湧かない人はネットで「黄金比」の画像を検索して下さい。)
デザインはもちろん、漢字やアルファベットの文字を書く時、パワポで提案資料を作成する時、部屋のインテリアの配置、服の丈やベルトの位置など、わりと何でも使えますよ。
最後に、実は黄金比には劣るものの、黄金比に次いで美しい基準とされる「白銀比」というものもあります。これは日本独自の比率とも言われていますが、次回はこの「白銀比」を題材に日本人の感性を考えてみたいと思います。
2014年5月13日火曜日
日本人が自己主張をしない本当の理由
こんにちは。のま丼です。
本日の記事はサラリーマン必見。
「日本人が自己主張しない本当の理由」を紹介します。
学生や主婦の方も是非チェックしてください。
グルーバルな社会で生き抜くためには知っておいて損はないはずです。
と、その前に・・・
以前にアップした記事の中で、発言しないことは非常に危険であることを紹介しました。
「沈黙は金?」
http://nomadon.blogspot.jp/2013/12/blog-post_9753.html
当然私も発言することを推奨する立場で記事を書きましたが、発言できない理由についての議論が成されていませんでした。
今回はその反省も含めて、「できない理由」に焦点を当ててご紹介します。
それでは始めます。
世界的に見て日本人が自己主張しない民族であることはご存知かと思います。
今のグローバルな時代では仕事上、外国人と意見を交わす機会は多く、活発な議論をしていかなければなりません。
なのに、日本人は自己主張をしない・・ 困ったものだ・・
と、外国人は考える訳ですが、それもそのはず。
アメリカ人は「沈黙は無能」と考える文化の中で育ち、フランス人は「沈黙は同意」と考える文化の中で育っているのです。
これらの民族にとって自己主張しないことは、「百害あって一利なし」と考える文化的背景がある訳です。
自己主張しないと損なのにそれでも日本人は自分の意見を言わない。
日本人に「なぜ発言しないのか?」と尋ねても明確な答えが返って来ないので、「日本人はシャイだから発言出来ない」というのが世界の共通認識です。
しかし、それでも自己主張をしない日本人には、自己主張を「是」としない文化的背景があるのです。
決して日本人が「シャイ」だからではありません。百歩譲って、そういった文化的背景によって日本人のシャイな性格が形成されてしまっているのです。
ではなぜ、日本人が自己主張をしないことに関して、説得力のある説明が出来ないのかと言うと、
その文化的背景があまりにも昔からどこにでも存在する為、日本人にとってあたりまえ過ぎること(アプリオリな概念)であり、うまく説明出来ないのです(DNAに組み込まれていると言っても過言でないレベルです)。
例えて言うなら、1+1がなぜ2になるかを説明するようなもので、ほぼ哲学的な問いに答えることと同義です。
という訳で、日本人は自己主張出来ない明確な答えを持ち合わせていないことから「シャイな日本人」に甘んじているのですが、本当はそうではないのです。
それでは、「本当の理由」を説明しますが、理由となる文化的は背景が昔から存在すると言っている以上、歴史を振り返ってみる必要があります。
(余談ですが、以下で説明する歴史は小学校の歴史の教科書に載っているレベルのものです。歴史の勉強の役立て方の一つとして受け入れて頂ければ幸いです。)
実はこの文化的背景を形成する歴史的事実の中で最も影響力があったのは、
「仏教伝来」 です。
これがすべての始まりと言っても問題ないと思います。
それでは「仏教伝来」がいかに現代日本人の文化的背景に影響を与えたか見ていきましょう。
西暦552年、百済(当時の朝鮮半島の国)の聖明王が日本に使者を送り、当時の天皇(欽明天皇)に仏像や経典などを献上したことが、仏教の公伝とされています。
※538年との説もあり。民間ではもっと早く伝わっていたそうです。←ここテストに出るよ(笑)
ここで重要なポイントは(テストに出るところではなく)朝鮮半島から伝わったということです。
もともと仏教はインドが発祥ですが、伝来のルートとしてまず中国に伝わり、朝鮮半島を経て日本に伝わりました。
これが非常にマズかったのです。
中国には「孔子」を起源とする「儒教」が紀元前の昔から存在しました。
儒教は東アジアの各国に莫大な影響力を持ち、その信仰は拡大して行きました。
当然、朝鮮半島もメインの宗教は儒教でした。
(※一応補足しておきます。儒教は思想や考え方が中心で他の宗教とは若干異なり、宗教ではないとも言われています。)
そんなところを経由して伝わった仏教は、もはや本来の仏教とかけ離れたもので、西暦552年に伝わったのは「仏教のエッセンスを取り入れた儒教」だったのです。
西暦513年に日本に「論語」が伝わっており、それが儒教の伝来とされていますが、仏を信仰対象とする形で伝わった「仏教のエッセンスを取り入れた儒教」は非常に受け入れやすかったのでしょうか、以前に伝わった儒教を吸収して「仏教」という形で日本の知識人に受け入れられ、政治や経済に利用されるようになります。
この時伝わった儒教が、今日まで残る日本人の文化的背景の基盤を形成しました。
その中で最大の影響力を持った「上下の秩序」という考え方です。
この考え方は「人は皆平等であるという意識」を無くしの差別的意識を助長することにも繋がりましたが(この辺りのことはまたに機会に詳しく紹介します)、ともかく、国民が自らの立場や位を認識し、位や年齢の人に逆らわないようにすることが、天皇を中心とする国家にとって統治しやすかった訳です。
こうして、この体制が政治の場から家庭にまで浸透し、日本人は自らの地位を相対的に認識し、それに応じて意見を言ったり、主張できる環境が極端に制限されるようになりました。
・目上の人が絶対である。
・目上の人に意見を述べることは恐れ多い。
・目上の人に従うことこそが美徳である。
・位や年が下の人間は、上の人間に従うことが当たり前。
・位や年が下の人間が、主張することは許さない。
こういった考え方を共通の認識とするコミュニティーにおいて、議論や自己主張といった行為は相手の批判に繋がりかねない為、到底受け入れられません。あるのは上から下への一方的な命令だけです。
下の人間は自らの意見を正しいと信じて主張したいことがあったとしても、そもそも上の人間に対して主張すること自体が失礼に当たるのに、その主張が間違っていようものなら何を言われるか・・
他にも、上の人間から批判や指摘されたことについては、弁解の余地はないものとされ、下の人間が正当な理由を述べてもただの言訳にしかなりません(今でもよくありますよね)。
これが日本人が自己主張をしない文化的背景を形成した最大の要因です。
補足的な要素としてもう一点例を挙げるなら、聖徳太子が制定した「十七条憲法」なども要因になりうるかもしれません。
条文にはこう書かれています。
【第一条】
「一に曰く、和を以て貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ(以下省略)」
意味としては「調和を重要視して、道理(上からの命令)に逆らったことはするな」といったところでしょうか。
これは孔子の「論語」から完全にパクった一文で、「儒教」を推奨している文です。
【第二条】
「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。(以下省略)」
第二条では、急にコロッと変わり「仏教」を敬えと言い出します。
この辺りからも、仏教と儒教を混同して認識していることがわかります。
まあ、そこはおいといて・・次の三条は重要です。
【第三条】
「三に曰く、詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め。君をば即ち天とし、臣をば即ち地とする。(以下省略)」
「天皇の命令には必ず従え。天皇は天であり、臣下は地である。」という意味です。
この条文によって上下秩序の頂点が明確化され、それ以下の人間には絶対服従が命じられました。
こうして、調和を目的として逆らうことが許されず、人の上に人を作り人の下に人を作った憲法が制定され、自己主張など到底許されるはずのない社会を法的に作ってしまいました。
このような法整備もあって、自己主張を「是」としない文化形成を促進していきました。
仏教に名を借りた「儒教伝来」から約1500年、上下秩序を前提として育まれた文化は、先にも述べた通り現代日本人のDNAにしっかり刻まれていることでしょう。
現代のグローバルな社会において主張や議論が重要なことは誰もが認めるところです。
しかしそれは、飽くまで頭で理解しているから納得するだけです。
あなたは(特に上司や先輩に対して)自らの意見を主張する際、何か心に引っ掛かるものはありませんか?
あなたは(特に部下や後輩から)意見を言われることに、何か心に引っ掛かるものを感じませんか?
それこそが今回の題材の「答え」なのです。
最後に。
この記事は完全に私の自己主張です。
主張は議論されなければなりません。
皆さんのご意見をお待ちしています。
本日の記事はサラリーマン必見。
「日本人が自己主張しない本当の理由」を紹介します。
学生や主婦の方も是非チェックしてください。
グルーバルな社会で生き抜くためには知っておいて損はないはずです。
と、その前に・・・
以前にアップした記事の中で、発言しないことは非常に危険であることを紹介しました。
「沈黙は金?」
http://nomadon.blogspot.jp/2013/12/blog-post_9753.html
当然私も発言することを推奨する立場で記事を書きましたが、発言できない理由についての議論が成されていませんでした。
今回はその反省も含めて、「できない理由」に焦点を当ててご紹介します。
それでは始めます。
世界的に見て日本人が自己主張しない民族であることはご存知かと思います。
今のグローバルな時代では仕事上、外国人と意見を交わす機会は多く、活発な議論をしていかなければなりません。
なのに、日本人は自己主張をしない・・ 困ったものだ・・
と、外国人は考える訳ですが、それもそのはず。
アメリカ人は「沈黙は無能」と考える文化の中で育ち、フランス人は「沈黙は同意」と考える文化の中で育っているのです。
これらの民族にとって自己主張しないことは、「百害あって一利なし」と考える文化的背景がある訳です。
自己主張しないと損なのにそれでも日本人は自分の意見を言わない。
日本人に「なぜ発言しないのか?」と尋ねても明確な答えが返って来ないので、「日本人はシャイだから発言出来ない」というのが世界の共通認識です。
しかし、それでも自己主張をしない日本人には、自己主張を「是」としない文化的背景があるのです。
決して日本人が「シャイ」だからではありません。百歩譲って、そういった文化的背景によって日本人のシャイな性格が形成されてしまっているのです。
ではなぜ、日本人が自己主張をしないことに関して、説得力のある説明が出来ないのかと言うと、
その文化的背景があまりにも昔からどこにでも存在する為、日本人にとってあたりまえ過ぎること(アプリオリな概念)であり、うまく説明出来ないのです(DNAに組み込まれていると言っても過言でないレベルです)。
例えて言うなら、1+1がなぜ2になるかを説明するようなもので、ほぼ哲学的な問いに答えることと同義です。
という訳で、日本人は自己主張出来ない明確な答えを持ち合わせていないことから「シャイな日本人」に甘んじているのですが、本当はそうではないのです。
それでは、「本当の理由」を説明しますが、理由となる文化的は背景が昔から存在すると言っている以上、歴史を振り返ってみる必要があります。
(余談ですが、以下で説明する歴史は小学校の歴史の教科書に載っているレベルのものです。歴史の勉強の役立て方の一つとして受け入れて頂ければ幸いです。)
実はこの文化的背景を形成する歴史的事実の中で最も影響力があったのは、
「仏教伝来」 です。
これがすべての始まりと言っても問題ないと思います。
それでは「仏教伝来」がいかに現代日本人の文化的背景に影響を与えたか見ていきましょう。
西暦552年、百済(当時の朝鮮半島の国)の聖明王が日本に使者を送り、当時の天皇(欽明天皇)に仏像や経典などを献上したことが、仏教の公伝とされています。
※538年との説もあり。民間ではもっと早く伝わっていたそうです。←ここテストに出るよ(笑)
ここで重要なポイントは(テストに出るところではなく)朝鮮半島から伝わったということです。
もともと仏教はインドが発祥ですが、伝来のルートとしてまず中国に伝わり、朝鮮半島を経て日本に伝わりました。
これが非常にマズかったのです。
中国には「孔子」を起源とする「儒教」が紀元前の昔から存在しました。
儒教は東アジアの各国に莫大な影響力を持ち、その信仰は拡大して行きました。
当然、朝鮮半島もメインの宗教は儒教でした。
(※一応補足しておきます。儒教は思想や考え方が中心で他の宗教とは若干異なり、宗教ではないとも言われています。)
そんなところを経由して伝わった仏教は、もはや本来の仏教とかけ離れたもので、西暦552年に伝わったのは「仏教のエッセンスを取り入れた儒教」だったのです。
西暦513年に日本に「論語」が伝わっており、それが儒教の伝来とされていますが、仏を信仰対象とする形で伝わった「仏教のエッセンスを取り入れた儒教」は非常に受け入れやすかったのでしょうか、以前に伝わった儒教を吸収して「仏教」という形で日本の知識人に受け入れられ、政治や経済に利用されるようになります。
この時伝わった儒教が、今日まで残る日本人の文化的背景の基盤を形成しました。
その中で最大の影響力を持った「上下の秩序」という考え方です。
この考え方は「人は皆平等であるという意識」を無くしの差別的意識を助長することにも繋がりましたが(この辺りのことはまたに機会に詳しく紹介します)、ともかく、国民が自らの立場や位を認識し、位や年齢の人に逆らわないようにすることが、天皇を中心とする国家にとって統治しやすかった訳です。
こうして、この体制が政治の場から家庭にまで浸透し、日本人は自らの地位を相対的に認識し、それに応じて意見を言ったり、主張できる環境が極端に制限されるようになりました。
・目上の人が絶対である。
・目上の人に意見を述べることは恐れ多い。
・目上の人に従うことこそが美徳である。
・位や年が下の人間は、上の人間に従うことが当たり前。
・位や年が下の人間が、主張することは許さない。
こういった考え方を共通の認識とするコミュニティーにおいて、議論や自己主張といった行為は相手の批判に繋がりかねない為、到底受け入れられません。あるのは上から下への一方的な命令だけです。
下の人間は自らの意見を正しいと信じて主張したいことがあったとしても、そもそも上の人間に対して主張すること自体が失礼に当たるのに、その主張が間違っていようものなら何を言われるか・・
他にも、上の人間から批判や指摘されたことについては、弁解の余地はないものとされ、下の人間が正当な理由を述べてもただの言訳にしかなりません(今でもよくありますよね)。
これが日本人が自己主張をしない文化的背景を形成した最大の要因です。
補足的な要素としてもう一点例を挙げるなら、聖徳太子が制定した「十七条憲法」なども要因になりうるかもしれません。
条文にはこう書かれています。
【第一条】
「一に曰く、和を以て貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗とせよ(以下省略)」
意味としては「調和を重要視して、道理(上からの命令)に逆らったことはするな」といったところでしょうか。
これは孔子の「論語」から完全にパクった一文で、「儒教」を推奨している文です。
【第二条】
「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。(以下省略)」
第二条では、急にコロッと変わり「仏教」を敬えと言い出します。
この辺りからも、仏教と儒教を混同して認識していることがわかります。
まあ、そこはおいといて・・次の三条は重要です。
【第三条】
「三に曰く、詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め。君をば即ち天とし、臣をば即ち地とする。(以下省略)」
「天皇の命令には必ず従え。天皇は天であり、臣下は地である。」という意味です。
この条文によって上下秩序の頂点が明確化され、それ以下の人間には絶対服従が命じられました。
こうして、調和を目的として逆らうことが許されず、人の上に人を作り人の下に人を作った憲法が制定され、自己主張など到底許されるはずのない社会を法的に作ってしまいました。
このような法整備もあって、自己主張を「是」としない文化形成を促進していきました。
仏教に名を借りた「儒教伝来」から約1500年、上下秩序を前提として育まれた文化は、先にも述べた通り現代日本人のDNAにしっかり刻まれていることでしょう。
現代のグローバルな社会において主張や議論が重要なことは誰もが認めるところです。
しかしそれは、飽くまで頭で理解しているから納得するだけです。
あなたは(特に上司や先輩に対して)自らの意見を主張する際、何か心に引っ掛かるものはありませんか?
あなたは(特に部下や後輩から)意見を言われることに、何か心に引っ掛かるものを感じませんか?
それこそが今回の題材の「答え」なのです。
最後に。
この記事は完全に私の自己主張です。
主張は議論されなければなりません。
皆さんのご意見をお待ちしています。
2014年3月31日月曜日
パチンコ業界の雑学 ~黙認されてきたギャンブルの歴史①~
皆さん、ご無沙汰しておりました。のま丼です。
今日は、パチンコに関する雑学をご紹介します。
なぜ、パチンコという賭博行為は摘発されないのか?
そもそも、日本中どこにでもパチンコ屋はありますが、なぜあんな賭博行為をしている店が商売としてまかり通っているのか疑問に感じませんか?
博打御法度の日本では、国会ではカジノ法案の可否に関して喧々諤々の大論争が起こっているのに、パチンコ屋はシレーっと営業できてしまうこの矛盾。おかしいと思いませんか?
今回は、この問いに答えたいと思いますが、これにはまずパチンコの歴史を振り返ってみる必要があります。
現在のパチンコは戦後の復興の中で生まれました。戦前もそれっぽいのはあったようですが・・
当然、当時のパチンコ屋も警察が所管する法律の規制にも基づき換金行為は禁止されおり、景品としてタバコやガムを交換していました。
ところが、戦後の混乱期な中、「そこらで勝手にやってる博打が摘発されないのに、パチンコだけ換金できないのはおかしい」と思うのは当然です。
そもそも換金できないギャンブルなど誰もやりません。
そこで登場するのがお決まりの暴力団です。
パチンコ屋で交換したタバコを裏口の持っていくと、パンチパーマにスラックスのおやじ(これは勝手なイメージです)がコッソリ換金してくれた訳です。
まあ当然、これは警察も知っています。
ですが、当時の社会の風潮は暴力団も一つの必要悪として認識しており、パチンコ屋も金銭を賞品として提供してはいけないという法律を守っていたので、警察も直ちに取り締まるわけにはいきませんでした。
こうしてパチンコ屋は暴力団と密接に関わりながら発展していきます。
ところが、時は経ち、焼け野原だった日本は「もはや戦後ではない」と言われるまで奇跡の大復興を遂げました。このころになると社会も繁栄し、企業は暴力団を利用しなくても十分利益を出せるようになってきます。
そうなってくると、「暴力団などといういかがわしい組織は必要ない」と手のひらを返したように社会の風潮が変わってしまいます。
おおよそ1960年代から暴力団排除の世論が強まり、これに向けて警察も動き出します。
当然、パチンコ業界も暴力団排除の為の改革を行いました。
それは換金方式の変更です。
パチンコ業界は1961年に大阪で始まった「三店方式」を取り入れました。
【三店方式の流れ】
①パチンコ屋は客に特殊景品を提供する。
②景品買取所は客から特殊景品を買い取り、現金を提供する。
③景品卸問屋は景品買取所から特殊景品を買い取り、パチンコ屋へ卸す。
④パチンコ屋はけ景品卸問屋から特殊景品を買い取り、①に戻る。
【三店方式のメリット】
①特殊景品の流通経路に景品卸問屋を挟むことにより、パチンコ屋は買取所との直接取引を行わない為、パチンコ屋が買取所に換金委託を行っていない形をとれる。
②景品買取所は特殊景品を「商品」として仕入れ、販売が可能。パチンコ屋が破綻しない限り取引先も安定している為、自身で存続できることから、パチンコ屋は暴力団と取引することなく継続的に換金行為を任せることが出来る。
③景品買取所に戦争未亡人などを雇用(仕事は客が持ってきた景品を換金するだけなので非常に簡単。雇うのは誰でもよい。)することにより、謳い文句に「社会福祉」掲げて活動できる。
当時、大阪府警は、この方式の導入により、最大の目的である暴力団排除が実現でき、かつ社会福祉にも貢献することから、事実上換金行為を黙認しました。
「三店方式」はの優れている点は、風営法の規制だけではなく、一部の都道府県の条例で規制されている「景品を買い取らせる行為(買取委託)」にも抵触しないことです。
この方式は「スタンダードかつ理想的な換金モデル」として全国的に広まり、今ではほとんどのパチンコ屋がこれを採用しています。
これが、パチンコの換金行為が摘発されない基本的な理由です。
ですが、警察の立場はあくまで「黙認」です。
「三店方式」は表面上法律に抵触しない形をとってはいますが、事実上換金行為を行っているのは明らかであり、警察庁「この仕組みは合法だ」とは絶対に言いません。
その気になれば警察は摘発の乗り出してくる可能性もあるわけです。
このように、パチンコ業界とは換金という非常にグレーな問題を抱えつつ存在しています。
20兆円産業のと言われるこの業界も、その終焉はすぐそこにあるかもしれません。
今日は、パチンコに関する雑学をご紹介します。
なぜ、パチンコという賭博行為は摘発されないのか?
そもそも、日本中どこにでもパチンコ屋はありますが、なぜあんな賭博行為をしている店が商売としてまかり通っているのか疑問に感じませんか?
博打御法度の日本では、国会ではカジノ法案の可否に関して喧々諤々の大論争が起こっているのに、パチンコ屋はシレーっと営業できてしまうこの矛盾。おかしいと思いませんか?
今回は、この問いに答えたいと思いますが、これにはまずパチンコの歴史を振り返ってみる必要があります。
現在のパチンコは戦後の復興の中で生まれました。戦前もそれっぽいのはあったようですが・・
当然、当時のパチンコ屋も警察が所管する法律の規制にも基づき換金行為は禁止されおり、景品としてタバコやガムを交換していました。
ところが、戦後の混乱期な中、「そこらで勝手にやってる博打が摘発されないのに、パチンコだけ換金できないのはおかしい」と思うのは当然です。
そもそも換金できないギャンブルなど誰もやりません。
そこで登場するのがお決まりの暴力団です。
パチンコ屋で交換したタバコを裏口の持っていくと、パンチパーマにスラックスのおやじ(これは勝手なイメージです)がコッソリ換金してくれた訳です。
まあ当然、これは警察も知っています。
ですが、当時の社会の風潮は暴力団も一つの必要悪として認識しており、パチンコ屋も金銭を賞品として提供してはいけないという法律を守っていたので、警察も直ちに取り締まるわけにはいきませんでした。
こうしてパチンコ屋は暴力団と密接に関わりながら発展していきます。
ところが、時は経ち、焼け野原だった日本は「もはや戦後ではない」と言われるまで奇跡の大復興を遂げました。このころになると社会も繁栄し、企業は暴力団を利用しなくても十分利益を出せるようになってきます。
そうなってくると、「暴力団などといういかがわしい組織は必要ない」と手のひらを返したように社会の風潮が変わってしまいます。
おおよそ1960年代から暴力団排除の世論が強まり、これに向けて警察も動き出します。
当然、パチンコ業界も暴力団排除の為の改革を行いました。
それは換金方式の変更です。
パチンコ業界は1961年に大阪で始まった「三店方式」を取り入れました。
【三店方式の流れ】
①パチンコ屋は客に特殊景品を提供する。
②景品買取所は客から特殊景品を買い取り、現金を提供する。
③景品卸問屋は景品買取所から特殊景品を買い取り、パチンコ屋へ卸す。
④パチンコ屋はけ景品卸問屋から特殊景品を買い取り、①に戻る。
【三店方式のメリット】
①特殊景品の流通経路に景品卸問屋を挟むことにより、パチンコ屋は買取所との直接取引を行わない為、パチンコ屋が買取所に換金委託を行っていない形をとれる。
②景品買取所は特殊景品を「商品」として仕入れ、販売が可能。パチンコ屋が破綻しない限り取引先も安定している為、自身で存続できることから、パチンコ屋は暴力団と取引することなく継続的に換金行為を任せることが出来る。
③景品買取所に戦争未亡人などを雇用(仕事は客が持ってきた景品を換金するだけなので非常に簡単。雇うのは誰でもよい。)することにより、謳い文句に「社会福祉」掲げて活動できる。
当時、大阪府警は、この方式の導入により、最大の目的である暴力団排除が実現でき、かつ社会福祉にも貢献することから、事実上換金行為を黙認しました。
「三店方式」はの優れている点は、風営法の規制だけではなく、一部の都道府県の条例で規制されている「景品を買い取らせる行為(買取委託)」にも抵触しないことです。
この方式は「スタンダードかつ理想的な換金モデル」として全国的に広まり、今ではほとんどのパチンコ屋がこれを採用しています。
これが、パチンコの換金行為が摘発されない基本的な理由です。
ですが、警察の立場はあくまで「黙認」です。
「三店方式」は表面上法律に抵触しない形をとってはいますが、事実上換金行為を行っているのは明らかであり、警察庁「この仕組みは合法だ」とは絶対に言いません。
その気になれば警察は摘発の乗り出してくる可能性もあるわけです。
このように、パチンコ業界とは換金という非常にグレーな問題を抱えつつ存在しています。
20兆円産業のと言われるこの業界も、その終焉はすぐそこにあるかもしれません。
2014年3月12日水曜日
本当に不謹慎なのは誰か?
こんにちは。のま丼です。
昨日は、3月11日。
誰もが知っている東日本大震災の日。
多くの国民が亡くなった方々の冥福を祈る中、ネット界ではちょっとしたトラブルがありました。
それは、「3月11日に誕生日を祝うのは不謹慎」という主張があり、それが世論になりつつあったということです。
遺族の方からすれば3月11日は憎き日、国民全体でも死者へ黙祷を捧げると共に、天災の恐ろしさを振り返り、将来の為に防災の必要性を再確認する身の引き締まる1日だったはず。
そんな中、3月11日はおめでたい日として周りで囃し立てられれば、当然腹立たしく、「不謹慎」とも感じるのも無理のない話です。
しかし、反論派は
「元旦は弥彦神社で124人が圧死した日」
「ひな祭りは昭和三陸地震で3008人が亡くなった日」
「七夕はサイパン島玉砕の日」
などの例を挙げ「同じ理屈だとこれらの日を祝うも祝うのも不謹慎にあたる」として反論を繰り広げています。
あなたはどう考えますか?
私は前者の意見には同意できません。
後者を擁護する一般論は以下のようなものでしょう。
・その日に生まれた本人に罪はない。
・誕生日は唯一無二のかけがえのない日であり、ほかの出来事に左右されるものではない。
・過去を振り返り続けたら、すべての日を悲観的に捉えなければならない。
私の意見は少し違います。
私が前者に同意できない理由の一つは、前者の主張は自身の感情に焦点があり、批判される側への配慮が感じらないことです。
もう一つは、遺族をなくす悲しみは何ものにも代えがたいことは理解しますが、他者を批判してまで自身の感情に同調を求める行為は、自分を可愛がり過ぎているのではないかとも思えるからです。
しかし、最大の理由は、過去に固執し過ぎている意見だからです。
前者は、自身や世間の悲観的な感情に他者を巻き込もうとする考えの上に成り立っており、将来を考えた建設的な意見ではありません。
過去は忘れてはいけません。
しかし、過去に固執し過ぎては、将来の発展はの望めません。
一番大切なのは、過去に向き合い、過去を反省し、同じ過ちを犯さないために今を生きる我々が何をすべきかを考えることです。
歴史を学ぶ大切さはこの為にあります。
この考えを1つの雑学として、覚えて頂ければ幸いです。
昨日は、3月11日。
誰もが知っている東日本大震災の日。
多くの国民が亡くなった方々の冥福を祈る中、ネット界ではちょっとしたトラブルがありました。
それは、「3月11日に誕生日を祝うのは不謹慎」という主張があり、それが世論になりつつあったということです。
遺族の方からすれば3月11日は憎き日、国民全体でも死者へ黙祷を捧げると共に、天災の恐ろしさを振り返り、将来の為に防災の必要性を再確認する身の引き締まる1日だったはず。
そんな中、3月11日はおめでたい日として周りで囃し立てられれば、当然腹立たしく、「不謹慎」とも感じるのも無理のない話です。
しかし、反論派は
「元旦は弥彦神社で124人が圧死した日」
「ひな祭りは昭和三陸地震で3008人が亡くなった日」
「七夕はサイパン島玉砕の日」
などの例を挙げ「同じ理屈だとこれらの日を祝うも祝うのも不謹慎にあたる」として反論を繰り広げています。
あなたはどう考えますか?
私は前者の意見には同意できません。
後者を擁護する一般論は以下のようなものでしょう。
・その日に生まれた本人に罪はない。
・誕生日は唯一無二のかけがえのない日であり、ほかの出来事に左右されるものではない。
・過去を振り返り続けたら、すべての日を悲観的に捉えなければならない。
私の意見は少し違います。
私が前者に同意できない理由の一つは、前者の主張は自身の感情に焦点があり、批判される側への配慮が感じらないことです。
もう一つは、遺族をなくす悲しみは何ものにも代えがたいことは理解しますが、他者を批判してまで自身の感情に同調を求める行為は、自分を可愛がり過ぎているのではないかとも思えるからです。
しかし、最大の理由は、過去に固執し過ぎている意見だからです。
前者は、自身や世間の悲観的な感情に他者を巻き込もうとする考えの上に成り立っており、将来を考えた建設的な意見ではありません。
過去は忘れてはいけません。
しかし、過去に固執し過ぎては、将来の発展はの望めません。
一番大切なのは、過去に向き合い、過去を反省し、同じ過ちを犯さないために今を生きる我々が何をすべきかを考えることです。
歴史を学ぶ大切さはこの為にあります。
この考えを1つの雑学として、覚えて頂ければ幸いです。
2014年2月21日金曜日
終わらないコンテンツ
こんにちは。のま丼です。
今日は急に普段と違う雰囲気を出してみたくなったので、文調を変えてみたいと思います。
諸君、如何お過ごしだろうか。
本日は、この手記の目的、即ち『雑学ライフ』のコンセプトを紹介しようと思う。
ブログで扱う題材がなぜ『雑学』なのか。
雑学の有用性については既に
『雑学の知識は役に立つのか?』
http://nomadon.blogspot.jp/2013/12/blog-post_18.html
で述べた通り、その効用は理解頂けたかと思う。
しかし、有用性があるからといってそれがブログで取り扱う理由には成り得ない。
私はこのブログを始める前は、常々何を題材にするかモンモンと悩んでいたのだが、ある時、一つの単語に興味を持った。
その単語とは、「オワコン」だ。
ご存じの通り、オワコンとは「終わったコンテンツ」を指す言葉である。
危うく辞書にも載りそうになったこの言葉は、栄枯盛衰、盛者必衰、日本人の持つ「無常観」を示すが如く、日夜目まぐるしく変化するこの情報世界に於いて、バッサリと「オワタ」の烙印を押す。
そこで、『雑学』が登場する。
雑学は古今東西ありとあらゆるものを取り扱うことが出来る。
また、この情報世界に蔓延る流行りや小手先のテクニックで仕上げられた知識と異なり、一歩引いた目線から物事を捉え、万物に批判を浴びせる事さえ可能となる。
ややもすると、原理主義的な様にも捉えられがちではあるが、逆に考えると、そこには一生モノの知識が存在することになる。
このブログに於いて私は、飽くまで「基本的」にという前置きが付くものの、「普遍的な知識や考え方」を紹介したいと考える。
勿論そこには私なりの考え方が存在する為、(意図的にという場合も含めて)客観性からかけ離れた捉え方をしているケースもあるだろうが、それはそれで紹介する過程を楽しんで頂きたい。
という訳で、この『雑学ライフ』が目指す形は「終わらないコンテンツ」である。
十年後、二十年後、諸君らが「おッ!どっかで見たな。」などと言いながら、再度このブログを訪れてくれることを願って止まない。
欲を言えば、五十年後、校庭で書物の代わりにiPadを持った二宮金次郎像がこのブログの記事を読んでいてほしいものだ。
【余談】
ところで、「オワコン」に対抗して「終わらないコンテンツ」示す言葉は何かないものか・・
(ブログのサブタイトルあたりで使いたい)
今のところ、これといった言葉は存在しないらしい。
巷では、「トレンド」という言葉が候補に挙がっているそうだが、私が目指すところの「終わらないコンテンツ」とは馴染まない。
では単純に「エンドレスコンテンツ」というのはどうだろうか。
略して「エンコン」!
えんこん・・・
怨恨・・・
響きが悪い(-。-)
良い案があれば是非コメントを!
今日は急に普段と違う雰囲気を出してみたくなったので、文調を変えてみたいと思います。
諸君、如何お過ごしだろうか。
本日は、この手記の目的、即ち『雑学ライフ』のコンセプトを紹介しようと思う。
ブログで扱う題材がなぜ『雑学』なのか。
雑学の有用性については既に
『雑学の知識は役に立つのか?』
http://nomadon.blogspot.jp/2013/12/blog-post_18.html
で述べた通り、その効用は理解頂けたかと思う。
しかし、有用性があるからといってそれがブログで取り扱う理由には成り得ない。
私はこのブログを始める前は、常々何を題材にするかモンモンと悩んでいたのだが、ある時、一つの単語に興味を持った。
その単語とは、「オワコン」だ。
ご存じの通り、オワコンとは「終わったコンテンツ」を指す言葉である。
危うく辞書にも載りそうになったこの言葉は、栄枯盛衰、盛者必衰、日本人の持つ「無常観」を示すが如く、日夜目まぐるしく変化するこの情報世界に於いて、バッサリと「オワタ」の烙印を押す。
「このブログは終わってはならない!」
そこで、『雑学』が登場する。
雑学は古今東西ありとあらゆるものを取り扱うことが出来る。
また、この情報世界に蔓延る流行りや小手先のテクニックで仕上げられた知識と異なり、一歩引いた目線から物事を捉え、万物に批判を浴びせる事さえ可能となる。
ややもすると、原理主義的な様にも捉えられがちではあるが、逆に考えると、そこには一生モノの知識が存在することになる。
このブログに於いて私は、飽くまで「基本的」にという前置きが付くものの、「普遍的な知識や考え方」を紹介したいと考える。
勿論そこには私なりの考え方が存在する為、(意図的にという場合も含めて)客観性からかけ離れた捉え方をしているケースもあるだろうが、それはそれで紹介する過程を楽しんで頂きたい。
という訳で、この『雑学ライフ』が目指す形は「終わらないコンテンツ」である。
十年後、二十年後、諸君らが「おッ!どっかで見たな。」などと言いながら、再度このブログを訪れてくれることを願って止まない。
欲を言えば、五十年後、校庭で書物の代わりにiPadを持った二宮金次郎像がこのブログの記事を読んでいてほしいものだ。
【余談】
ところで、「オワコン」に対抗して「終わらないコンテンツ」示す言葉は何かないものか・・
(ブログのサブタイトルあたりで使いたい)
今のところ、これといった言葉は存在しないらしい。
巷では、「トレンド」という言葉が候補に挙がっているそうだが、私が目指すところの「終わらないコンテンツ」とは馴染まない。
では単純に「エンドレスコンテンツ」というのはどうだろうか。
略して「エンコン」!
えんこん・・・
怨恨・・・
響きが悪い(-。-)
良い案があれば是非コメントを!
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